2014年4月19日土曜日

豚のしっぽ

ガルシア・マルケス氏死去、87歳=「百年の孤独」のノーベル賞作家


一つの時代が終わったような気がする

過去記事を検索すると
G・マルケスについて  二つ記事がヒットした
ブログを書き始めた頃の記事
まだ震災から1年も経っていない
東北の傷跡が生々しかった頃



海を抱いている
http://suishounohibiki.blog.fc2.com/blog-entry-63.html
ハメルンの笛吹き男
http://suishounohibiki.blog.fc2.com/blog-entry-45.html


私だけかもしれないけど
作家の死はかなり大きな時代の変化を感じさせる
象徴している気がする

私だけかもしれないけど
多分現代という時代を司っているのは
作家の筆だったのかもしれない

きっと村上春樹が亡くなったら
誰もが一つの時代の終わりを感じると想う

大スターや大女優のように
大衆に広く愛された人気者たちよりも
作家の死にぐっと来るものがあるのは
時代を演じた人よりも
その時代を演出した  舞台監督の方に
時代の終わりを見てしまうから

映画よりも舞台では
主演と同じくらい  時には主演以上に
誰の作品なのかが重要になる

誰が出ていようと蜷川作品  宮本亜門作なら
それだけで観に行く人がいるし
それだけで話題になる

舞台の世界は誰が作ったか
どこの劇団の舞台か
役者よりも作り手の世界観が
客を引き付ける

舞台が芸能の中心であるように
この世界もまた
舞台のように作り手が存在する


20世紀が作家の時代だったのは
この時代の作家が  まるで舞台監督のように
この世界の在り様を  
私たちに教えてくれていたからかもしれない


現代の作家は  
この世界を司る神官に近かった



マルケスの本は『予告された殺人の記録』と
短編ぐらいしか読んでない

『百年の孤独』は途中で挫折・・・

ひたすら長く延々と続く描写は
心に余裕がなければ耽溺できないと想う


つい最近『コレラの時代の愛』を映画で観た

50年以上も一人の女性を待ち続けた男の話


百年の孤独や50年待つ愛


この人の作品は人の一生に対しては
とても長すぎる時間から
俯瞰して眺めているような所がある


数時間先  数年先のことしか頭にない
現代社会に生きる人間の
さもしい時間感覚をあざ笑うかのように
土着の神話が生々しく息づいている
中南米の小説の世界は
まるで何百年も時が止まっているようだった


昔読んだビジネス書では
「長い視点を持った企業ほど生き残る」
って書いてあったけど
どんな世界もなが~~い目で見る人が
最後に笑うのかなと想う


どんなに長い視点を持っていても
ほとんどの人は自分の一生を超える視点は持てない
子供や孫 両親や祖母
自分に繋がる子孫や先祖が
個人が自覚できる範囲かもしれない

自分の血筋  一族の血の歴史に立つとき
軽々と個人の一生を超えて
数百年分の それ以上の長い視点を持つことが出来る


旧家があらゆる時代であらゆる分野で優位に立てるのも
血筋を守るという意識によって
長い目で物事を見る力を培えるからで
伝承や口承によって引き継がれる経験や知恵が
生まれ変わりによって失った前世の記憶の
代わりを果たしていて
代々伝わるシンボルやサインのような
潜在意識に訴えるマークも
眠っていた記憶を呼び覚ますトリガーとなる

そうして時代が変わっても
一族の記憶は再生され  共有されていく



日本は現代的で先進国で優秀で~なんて
世界に対して誇っていても
マルケスがいる世界からは
目先の利益に血眼になっている
回し車のハムスターのようにしか見えないかもしれない







コレラの時代の愛コレラの時代の愛
(2006/10/28)
ガブリエル・ガルシア=マルケス




50年一人の女性のために純潔を守ったと
主人公はのうのうと言ってのけるのですが
実際は数多くの女性と関係を持つことを「習慣」にして
記録まで付けていたわけで

でもそれは女王蜂のような女性のために
600人の女性を捧げたという意味で
だから彼は「純潔を守った」と言ったのかなあと

ほとんど死の間際に二人は結ばれるのですが
来世では王様や女王様のようになってるかもですね
二人のためにそれだけ多くのエネルギーが
ピラミッドを築くように費やされましたから

そう考えるとかなりグロテスク




百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
(2006/12)
ガブリエル ガルシア=マルケス



血縁同士で結ばれると、豚のしっぽが付いた子どもが産まれてくるという。


小説の最後

なぜならば、アウリャノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたまさにその瞬間に、この鏡の(すなわち蜃気楼の)町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えることは明らかだったからだ。また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。



ガルシア=マルケス『百年の孤独』

この物語はすでに書かれたものであることが明らかにされる。読み終わった瞬間、物語が書かれた紙は消え、孤独を運命づけられた一族は二度と繰り返さないことが予告される。つまり、物語は終わると同時に破棄されるのだ。これは物語自体が一回限りのものであり、歴史的産物であることを示している。


予告が好きなマルケス
つまり現実で起きている事柄は
全てどこかで予告されているものだということ






















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